◆◆◆◆◆アルフォンスの手から、ヴィオレットはそっとハンカチを受け取った。指先で刺繍の施された布を確かめるように撫でる。――懐かしい感触だった。ハンカチの生地は上質で、手に馴染む柔らかさがある。細やかな金糸の刺繍が施されたその端を、ヴィオレットは指でなぞった。琥珀色の瞳が細められ、彼女の表情がふっと和らぐ。「……これは、母の手によるものですね」ヴィオレットの呟きが、静まり返った広間に響いた。貴族たちの間にどよめきが広がる。アウグストは、その言葉に眉をわずかに動かした。「母上がまだアウグストと婚約していた頃、彼のために刺繍して渡したのでしょう」ヴィオレットはそう言うと、ハンカチを掌の上に広げた。細やかな刺繍――そこには、王家の紋章と共に、アウグストの名が丁寧に刻まれている。ヴィオレットはゆっくりと目を伏せ、その一針一針に込められた思いを確かめるように指先でなぞった。「これほど丁寧に縫われた刺繍……母は、確かに貴方を愛していた瞬間があったのでしょう」広間にいた貴族たちが、息を呑む音が微かに聞こえた。「ですが、母はルーベンス侯爵と出会い、そして恋に落ちた」ヴィオレットは静かに顔を上げた。彼女の視線の先にいるのは、アウグスト。彼は何も言わず、ただヴィオレットを見つめている。「それでも、貴方はこのハンカチを手放さなかったのですね」ヴィオレットの言葉は静かだったが、その響きには確かな問いが込められていた。「貴方は、このハンカチを何のために持っていたのですか?」広間の空気がさらに張り詰めた。アウグストの顔から、ついに笑みが消える。彼は静かにヴィオレットを見つめていたが、やがて低い声で呟いた。「……そんなハンカチは知らんな」アウグストの声は平静を装っていたが、わずかな揺らぎがにじんでいた。しかし、ヴィオレットは怯まなかった。彼が何を思い、何を捨てられなかったのか――その答えを、ヴィオレットはすでに知っている。「私の母を愛していたから、忘れないために持っていたのでしょう?」ヴィオレットの問いに、アウグストはゆっくりと目を閉じた。そして次の瞬間、再び瞳を開いたときには、冷たい光が宿っていた。「貴様が何を言おうと、罪は逃れられないぞ、ヴィオレット」アウグストの言葉に、広間が再びざわめく。しかし、ヴィオレットはわずかに
◆◆◆◆◆「家族であるヴィオレットの殺害を企てた人間を生かしておいたことには理由があります。彼は枢機卿の罪を暴く生きた証人だからです」アルフォンスの静かな声が広間に響いた。その一言で、貴族たちの間に緊張が走る。アウグストは、口元にわずかな笑みを浮かべながらも、その瞳の奥には鋭い光が宿っていた。「ダミアンの父親はすでに亡くなっています。しかし、彼は生前に命の危険を感じていたのか、息子に宛てた遺書めいた手紙を遺していました」アルフォンスは封筒から一通の手紙を取り出し、それを高く掲げる。「この手紙には、ダミアンの父が過去に犯した罪が記されていました。そして、その罪を依頼した人物の痕跡も残されているのです」広間に息を呑む音が響く。アルフォンスは視線をアウグストに向けると、ゆっくりと口を開いた。「手紙にはこう記されています」静かな声で、彼は読み上げる。「“私はどうやら教会関係者に命を狙われているようだ。思い当たる出来事は一つしかない。それを手紙に記す。これを読んでどうするかはお前に任せるーー私はかつて、ある者の依頼を受け、ルーベンス侯爵夫妻が乗る馬車に細工を施した。そして、彼らは盗賊によって殺された”」広間がざわめく。「馬車の細工……」「ルーベンス侯爵夫妻が盗賊に襲われたのは、偶然ではなかったって事か……?」「そんな……」貴族たちが互いに顔を見合わせる中、アルフォンスは続けた。「手紙にはさらにこう書かれていました」彼は次の一文を読み上げる。「“馬車の細工を依頼した人間は、シクラメンの香水を身につけていた”」広間の空気が凍りつく。「シクラメンの香水……?」「教会関係者にしか使えないものでは?」異端審問官たちが互いに顔を見合わせた。「そうです」アルフォンスは静かに頷く。「教会の高位聖職者しか手にすることができない香水……それを身につけた者が、ヴィオレットの両親の死に関与していたのです」「だが、それが枢機卿である証拠はどこにある?」誰かがそう問いかけた。アルフォンスは一度、手紙を封筒に戻すと、新たに懐から別の封筒を取り出した。「ダミアンの父親は、その依頼者からある物を盗み取っていました」封筒をゆっくりと開け、中から取り出したものを掲げる。それは、一枚のハンカチだった。「このハンカチは、その依頼者の持ち物でした」
◆◆◆◆◆「どうやら、ヴィオレット嬢は本当に気が狂ってしまったようだ」アウグスト・デ・ラクロワは冷ややかな笑みを浮かべながら言い放った。その声音には余裕があり、まるでヴィオレットの発言を取るに足らないものとして扱うかのようだった。「私がミア・グリーンを殺した? 馬鹿馬鹿しいにも程がある。証拠があるのか?」貴族たちは息を呑み、広間を満たす緊張がさらに高まる。ヴィオレットは微動だにせず、琥珀色の瞳を強く輝かせながら言った。「あります」その静かな声が響くと、貴族たちはざわめき、異端審問官たちも互いに視線を交わした。「ほう?」アウグストはわずかに目を細める。「では、その証拠とやらを見せてもらおうか」彼の挑発的な言葉に対し、ヴィオレットは何も答えず、隣に立つアルフォンスを見た。アルフォンス・ルーベンスは無言で頷くと、軽く手を上げた。それだけで、彼の部下が扉へと向かう。音を立てて扉が開く。その向こうから、レオンハルト・グレイブルックが一人の男を連れて現れた。男の手首は縄で縛られ、粗末な服を着ている。レオンハルトはその腕を乱暴に引き、無理やり広間の中央へと進ませると、アルフォンスの横まで連れてきて、床に押し倒した。「ダミアン・クレインを連れてきたぞ、アルフォンス」「ご苦労。レオンハルトもこの場に残ってくれ」大して役には立てないぞと呟きながら、レオンハルトはアルフォンスの横に立つ。「くそっ、痛えなぁ!」ダミアンは苦々しげに顔を歪め、縛られた手をわずかに動かした。広間に緊張が満ちる。誰もが男の出現を見つめ、何が起こるのかを待っていた。アルフォンスが、低く静かな声で問いかける。「お前はミアの愛人だな?」ダミアンは黙ったまま、ぎろりとアルフォンスを睨んだ。そして、短く舌打ちをする。「……チッ」それから、不敵に口元を歪めた。「貴族様が勢ぞろいで俺の話に耳を傾けるとは奇妙な光景だな」そう言いながら、ダミアンは縛られた手をわずかに動かし、周囲を見渡す。「普段は虫けらは喋るなとばかりに庶民を扱う癖によ」広間にいる貴族たちの何人かが眉を顰め、異端審問官の一人が軽く咳払いした。アルフォンスは感情を表に出さず、ただ静かに言う。「余計なことは話さなくていい」ダミアンは肩を竦めると、面白がるように口の端を吊り上げた。「そうだ。俺はミ
◆◆◆◆◆豪奢なシャンデリアの光が煌めく玉座の間に、一人の女性が歩を進めた。琥珀色の瞳に宿る鋭い光は、臆することなく前方を射抜いている。堂々たるその立ち姿は、ただの貴族の妻などではないことを如実に示していた。彼女の名はヴィオレット・アシュフォード。ルーベンス侯爵家の令嬢にして、アシュフォード伯爵家の正妻。そして今、彼女はある重大な疑惑をかけられ、王の前へと引き出されていた。広間には、国の中枢を担う者たちが集結している。王の側には王太子アドリアン・ド・ソレイユと、第二王子シャルル・ド・ソレイユ。そして、彼女の兄であるアルフォンス・ルーベンスの姿もあった。異端審問官と教会の高位聖職者が厳かに並び、その中心に枢機卿アウグスト・デ・ラクロワが立っている。琥珀色の瞳を細めるヴィオレットを見据えながら、彼は冷たい笑みを浮かべていた。石造りの壁に反響する靴音が、やけに大きく聞こえる。ヴィオレットは玉座の前で立ち止まると、優雅にスカートの裾を摘み、静かに頭を下げた。「王よ、私は無実です」澄んだ声が広間に響き渡る。その場にいる貴族たちはざわめいたが、王は何も言わず、静かに続きを促した。「私はミア・グリーンを殺していません。けれど、確かに彼女を殺した者はこの場にいます」鋭く言い放つヴィオレットの言葉に、広間はさらに騒然とする。互いに顔を見合わせる貴族たちの間に、不安と疑念が広がっていく。「馬鹿な……」「何を言ってるんだ?」ヴィオレットの言葉が信じられないという様子で、多くの人間が彼女に注目する。そんな中、ヴィオレットは顔をあげて、まっすぐにアウグストを見据えた。「貴方です、アウグスト」静かながらも確信に満ちた声が、重く広間に響いた。瞬間、空気が張り詰める。異端審問官たちの間に微かな動揺が走り、教会の高位聖職者たちは視線を交わす。貴族たちは驚愕の表情を浮かべながら、アウグストの反応を見守っていた。その張り詰めた沈黙の中で、アウグストはほんのわずかに表情を曇らせた。しかし、それも一瞬のこと。すぐに彼は薄く笑い、肩をすくめた。「……どうやら、ヴィオレット嬢は気が狂ってしまったようだ」まるで哀れむかのような口調だった。「まさか、私を陥れようというのか? これはいくらなんでも滑稽すぎる」彼の言葉に、場の空気が微妙に揺らぐ。貴族たちは互いに視線
◆◆◆◆◆王宮の奥、王太子アドリアン・ド・ソレイユの執務室。アルフォンスが扉を開けると、室内には静かな空気が漂っていた。壁際の燭台に揺れる灯りが、重厚な執務机をぼんやりと照らしている。机の上には整然と書類が並べられ、王太子アドリアン・ド・ソレイユがその一つに目を通していた。「ご無礼いたします、殿下」「来たか、アルフォンス」アドリアンは顔を上げると、片眉を軽く上げる。目の下にはわずかに疲れの色が見えたが、その視線は冷静だった。「無事に戻ったようだな。ヴィオレットとリリアーナは?」「邸に戻りました。長旅で相当疲れているようでしたので、今は休ませています」「そうか」アドリアンは書類を机に置き、指を組んでアルフォンスを見据えた。「今回、騎士団を貸した理由は理解しているな?」アルフォンスは静かに頷いた。「ええ、殿下の目的がヴィオレットの救出だけでないことも」「ならば話は早い」アドリアンは椅子に深く身を預け、目を細めた。「ヴィオレットは、ただの貴族の娘ではない。彼女の母イザベラ・ヴァリエールは、我が叔母――先代王の娘であり、正統な王女だった。お前も知っているはずだ」「……もちろんです」「ならば、なぜアウグストがヴィオレットを異端者として陥れようとしたのかも、分かるだろう」アルフォンスは無言のままアドリアンを見つめた。「アウグストにとって、ヴィオレットは邪魔な存在なのだ」アドリアンの声は淡々としていたが、その奥には冷たい怒りが滲んでいた。「私の腹違いの弟、シャルルの母親はアウグストの妹だ。そしてアウグストは今、教会で圧倒的な影響力を持ち、次期教皇の座を狙っている。もし彼が教皇になれば、シャルルを国王にすることも夢ではない」アルフォンスは黙っていた。「そして、そのためには邪魔者を排除する必要がある」アドリアンは机を軽く指で叩いた。「ヴィオレットは王家の血を引いている。たとえ王位継承権がないとはいえ、彼女が存在することで、王族の影響力がルーベンス家にも及ぶ。これは、アウグストにとって好ましくないことだ」「つまり、王族に近い血筋の者を、異端者として処刑することで、アウグストは教会の支配力を強めようとしているのですね」アルフォンスが静かに言うと、アドリアンは満足げに頷いた。「そうだ。もしヴィオレットが異端の罪で裁かれれば、それは王
◆◆◆◆◆早朝にルーベンス家の領地を発ち、日が沈む前には王都に着くはずだった。しかし、休むことなく馬車を走らせたせいで、王都の城壁が見えた頃には、すでに夜になっていた。長時間の移動で体は重く、馬車の揺れがじわじわと疲れを増していく。行きは余裕をもって宿屋に一泊しながら進んだが、帰りはひたすら馬を走らせ、途中で休むこともなかった。その違いが、今の身体にまとわりつくような疲労感となっている。足は感覚が鈍く、まぶたも知らず知らずのうちに重くなる。隣に座るレオンハルトの腕の中で、リリアーナはぐったりと眠っていた。小さな身体は完全に力が抜け、時折、規則正しい寝息が聞こえる。道中、何度か目を覚ましそうになったが、結局そのまま意識を手放してしまった。無理もない。こんな強行軍では、大人でも疲れ果てるのだから。ヴィオレットはそっと娘の頬を撫でた。「少し無理をさせすぎたかしら……」「……お前の方が無理をしているように見えるがな」向かいに座るアルフォンスが静かに言う。その声は落ち着いていたが、気遣いが滲んでいた。「ずっと気を張っていたんだろう。王都に着いたら、すぐに休め」ヴィオレットは微笑んだが、疲れのせいで口元が少ししか動かなかった。彼の言葉はありがたかったが、簡単に気を緩められるものではない。「……ありがとうございます、兄上」けれど、そう答えた瞬間、自分がどれほど疲れているのかを改めて感じた。身体がずっしりと重く、頭の芯がぼんやりしている。まぶたが自然と落ちかけるが、今はまだ眠るわけにはいかない。王都に戻ったとはいえ、問題がすべて解決したわけではないのだから。「そんな顔をするな」アルフォンスがわずかに眉をひそめると、手を伸ばし、ヴィオレットの手の甲に軽く触れた。「お前が耐えるのはもう十分だ。リリアーナのためにも、少しは自分を労われ」アルフォンスの温かい言葉に、ヴィオレットは表情をほころばせた。「……ふふ、そんな風に優しくされると、逆に緊張してしまうわ」「たまには素直に頼れ」アルフォンスは短く言うと、そっと手を引いた。その一瞬のぬくもりが残る手を、ヴィオレットはぎゅっと握りしめる。ちょうどその時、馬車が大きく揺れ、王都の門をくぐった。外を覗くと、夜の王都は静かで、邸へと続く石畳の道には街灯の明かりがぼんやりと光を落としていた。しばらく走る